高齢者と上手くコミュニケーションを取るためには彼らが生きてきた時代について知っておくべきです。
今回はデイサービスのご利用者様のメイン世代である昭和初期に生まれた方の生きてきた時代について話していきたいと思います。
特に昭和という時代は激動の時代でした。大正の終わりの関東大震災の復興もままならないうちに世界恐慌が起こり世界は第二次世界大戦戦争へ進んでいきまます。
戦争が終わると国民の関心は一気に復興へ向き経済が発展していきます。
高度経済成長期、バブルの時期にちょうど40代、50代と油の乗った時期が重なっており、日本を経済大国に押し上げる大きな要因となりました。
昭和初期の日本
昭和一桁時代の頃、日本人の平均寿命は50歳程度で、日本の人口は6400万人ほど(昭和5年国勢調査)でした。
この頃の家庭は8人、9人兄弟は当たり前でした。今よりも乳幼児の死亡率や成人までの死亡率は比べ物にならないくらい高かったですが、それでも日本の人口は爆発的に増えていきました。
テレビなどはなくラジオが普及し始めていました。
洗濯機もないので洗濯板で、冷蔵庫もただの木箱に氷を入れてものを冷やしているような時代でした。
職業は農家が最も多くとても貧しい生活をしていました。
農村部の女子は未だに身売りが当たり前のように横行していましたし、男子は丁稚奉公などに出されることが多く、幼い時期に親元を離れた経験をされた方が多くいらっしゃいます。
東京で大企業に勤める一部のエリートは農家の100倍もの給料を得ており、ある意味今よりも格差があったと言うことも出来ます。
昭和一桁生まれの著名人
- 天皇皇后両陛下
- 渡辺恒雄
- 大橋巨泉
- 石原慎太郎
幼少期
1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、復興もままならないまま世界的な恐慌が起こり日本は戦争へと舵を切ることになります。
昭和一桁生まれの方の幼少期は戦争中であったため食糧事情が劣悪で配給の芋ばかりを食べていたために、戦後になっても芋が食べられない高齢者がいるほどでした。
都心に住んでいた方は疎開を経験されている方がとても多く疎開先ではいじめが横行し、今でもトラウマに感じている方もいらっしゃいます。
特に私のデイサービスがある墨田区や葛飾区などの地域にいた方は東京大空襲を経験されています。
そこら中に死体が転がっている中、B29が落としていく大量の焼夷弾を拾ってゴミ箱(?)に投げ入れたという思い出を語ってくれた方もいました。
戦争に関する記憶を聞いてみると下記のような内容を述べられる方がとても多いです。
- 戦争で家族を亡くした
- 食べ物が不足していて芋ばかり食べさせられた
- 疎開先でいじめられて辛かった
- 空襲警報を聞いたら
- 東京を見渡したら火の海だった
幼少期の遊びといえばコマや面子などしかありませんでした。
女の子はおはじきやお手玉を使って遊んでいました。
ただ、農家や小売店を営む家が多かったので学校が終わった後は親の手伝いをさせられていた子が多かったようです。
学校制度
昭和一桁生まれの方が学んだ学校制度は大正8年に確立されました。
殆どの子どもたちが小学校を卒業すると働き手として期待され、勉強をしたくても上に上げてもらえませんでした。
基本的に優秀で裕福な男子は尋常小学校→中学校→高等学校→大学と学んで行くかたちは今とさほど変わりがありませんでした。
ただし、現代とは違い大学への進学率は1%程度ととても間口が狭かったのです。
小学校
尋常小学校(6年)
中等教育
中学校(4年):優秀な男子が行く
高等女学校(4年):優秀な女子が行く
高等小学校(2年):中学にはいけないが勉強がしたい子が行く
高等教育
高等学校(3年):中学終了後の男子のみ
専門学校(3年):農業、工業などの専門的な教育
高等師範学校(5年):教師になるための学校
女子校等師範学校(5年):高等女学校卒業で教師になるための学校
陸軍士官学校(4年):陸軍の幹部を要請する学校
海軍兵学校(4年):海軍の幹部を要請する学校
高等学校卒業後
大学(3年):当時の大学進学率は1%程度であった
医科大学(4年):医師を輩出するための学校
青年期
男性に関しては戦争に行った経験のある方がいるでしょう。
当時は17歳になると徴兵検査を受けさせられていました。
運が悪い方は満州やフィリピンなどに派遣され、中にはシベリア抑留を経験されている方もいるでしょう。
私のデイサービスにも1名シベリアに行かれた方がいらっしゃいました。シベリア時代の話はなかなかハードでここでは書けないような経験も語って頂きました。
1945年(昭和20年)に戦争が終わってから昭和一桁世代は復興の労働力としての役割を果たしていきます。
ものを作れば売れる時代、工場を始めるもの、様々な商売を始めるものなどが大いに稼いで行きました。そこから多少の増減はありましたが基本的に日本は成長の一途を歩んで経済大国の仲間入りを果たします。
休みは今のように週2日もあるわけはなく、戦後直後の商売人は毎月15日と末日の2日しか休みがありませんでした。それが毎週日曜日がお休みになっていきました。
この世代の商売人は働き者でした。
ほとんどの者が一軒家を購入して一国一城の主となりました。
娯楽といえば映画です。戦後直後はまだテレビも普及しておらず、若者は映画館や大衆演劇を見に街に繰り出しました。映画館はそこら中にありました。流行っていた映画は邦画であれば任侠物が多く、洋画であれば西部劇が流行っていました。
2話目に続きます。
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